Question & Answer

同じクリスチャンなのに、教会ってどうしてこんなに教団・教派があるの?

僕の住んでいる町には、仏教のお寺が七十軒ほどあります。真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、曹洞宗、臨済宗などで、それぞれもとになっている教典も、拝む本尊も違います。それと違ってキリスト教は、教典は同じ聖書、信じる対象は三位一体である唯一の創造主を信じる点でまったく同じです。
では、なぜ多くの教団・教派に分かれているのでしょうか。これには歴史的な理由があります。ルターやカルヴァン、イギリスのウェスレーのような、聖書を教えるのに力のあった偉大な先生がいました。その弟子たちは受けた教えが同じなので、ほかの先生の弟子たちよりも親しい付き合いをすることになり、そのなかで自然と教派ができていきました。いわば親戚同士の付き合いのようなものです。ルターの弟子たちはルーテル教会になり、カルヴァンの弟子たちは改革派教会や長老教会をつくり、ちょと後の時代に、ウェスレーの弟子たちによってメソジスト教会がつくられました。現在は、解釈の細かい違いや、歴史的事情、地理的理由も加わり、さらに細かく分かれています。とくに日本は、外国から来た宣教師によって始められたものがほとんどなので、送り出したもとの教会は教派の伝統を引き継いで、いくつもの教派が存在しているのです。小さな違いで別れ争うのはおかしいと言う人もいますが、べつに争っているのではありません。同じ福音を信じて宣べ伝えているからです。ですから、ひとつの町で違った教派の教会が協力し合って大きな伝道集会を開いたりします。信仰の立場が似ているいくつかの教派が合同することもありました。教派がたくさんあっても、キリスト教はひとつなのです。
ローマ・カトリックとの関係においては、彼らが聖書の『外典』という追加文書を受け入れていること、教会のかしらとして教皇(いわゆるローマ法王)がいることが、協力できない大きな理由でしょう。それでも、あるところでは互いに交換して説教することも行われています。
ちなみに、統一教(協)会(原理運動)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)は、新興宗教であってキリスト教ではありません。

旧約聖書と新約聖書の違いってなんなの?

世の中には誤解している人もいますね。「旧訳」と「新訳」だとか。そんな人はいまどき多くないと思いますが……。でも、旧約聖書はもともとユダヤ教の教典で、キリスト教が借りて使ってると思っている人がいるのではないでしょうか。しかし、厳密に言えば、これも違います。
ユダヤ教はそもそも旧約聖書にその起源をもっていますが、アブラハムやダビデやイザヤの信仰ではなく、旧約と新約との中間の時代にかたち作られた民族信仰なのです。ひとつの立場での解釈にすぎません。ユダヤ教の事実上の教典は、その解釈を集めた「タルムード」という書物です。
では、旧約聖書とはなんなのでしょう。これは、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もともに重んじている教典ですが、いずれも旧約聖書だけでは未完成であると考えています。
私たちの旧約聖書理解は、これは聖書の前編だということです。旧約聖書を見ると、神様の全人類に対する救いの約束が、まずユダヤ人に示されています。しかし、予言されているだけで実現はしていません。神殿で動物犠牲(レビ記などにとても詳しく書いてあります)をささげることによって罪からの救いが予告されていますが、その神殿がなくなり、動物犠牲がなくなってから、まもなく二〇〇〇年が経ちます。ユダヤ教では、動物犠牲なしでも神の民であるため、別な解釈を考え出しましたが、私たちはそんなことはしません。不完全な動物犠牲が指し示していた本物、救い主イエス・キリストの十字架の死があるからです。
新約聖書こそ、前編に対する完結編です。イエス様によって、神様による全人類への救いが、旧約聖書の約束の実現として成し遂げられました。そのことを歴史的事実として記録したのが、新約聖書のなかの福音書です。ですから、旧約聖書は新約聖書の光のなかで正しく理解されるし、新約聖書は旧約聖書の背景のなかで深く理解できるのです。
私たちにとっては、旧約聖書と新約聖書を合わせて一巻の聖書なのです。

なんで神様は試練を与えるの?

私たちの人生にはいろいろな痛み、苦しみがあります。それは肉体の痛みだけではなく、精神的なものもあるでしょう。そして「どうして自分ばっかり!?」と感じるくらい、続けてつらい思いをすることもあります。そうなると、苦しくて顔をあげることができず、先が見えなくて失望したり、耐えられなくなったり、人に八つ当たりしてしまうこともあるかもしれません。また、自分の周りで「こでもか!」というくらいたくさんの試練を経験している人を見ることもあります。そんなとき「神様どうして!?」と叫びたくなる気持ちはよくわかります。
でも、覚えてほしいのです。神様は決して無意味なことをなさらないということを。すべてのことには必ず意味があります。だから、自分があっている試練も、他の国の人があっている試練も意味があるのです。
試練の意味は、人がそれぞれ違うので一概には言えません。それを知りたいなら、主の前に静まることです。静まって神様に聞いていくなら、その試練の意味や、原因や、解決方法が示されるかもしれないし、慰めや励ましが与えられるかもしれません。
確かに言えることは、夜の後に必ず朝がくるように、やがて真っ暗闇、試練の真っ只中にも光が差すときがくるということです。聖書にはこう書いてあります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント:13)。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ:28)。「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(Ⅰペテロ:7)。
今とおっている試練をやがて振り返るときがきます。そのときには、この詩篇の著者の言葉に共感することでしょう。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇:71)。

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